おうち帰りたいブログ

自分のための話

祖母の足跡を訪ねる

9月中頃、戦前に祖母が滞在していた中国の農村を訪ねた。

 

たまたま友人二人と中国東北部(旧満州国地域)を旅する予定があり、せっかくだからとその旅程に組み込んでもらったのだった。

 

祖母は(少なくとも私の前では)あまり思い出話をするたちではなく、曽祖母と共に戦前満州にいたことなどもつい数年前に教えてくれたことだ。それを知ったときは「満州」「引揚者」という歴史上のぼんやりとした概念がぐっと身近になり、自分までもが「引揚者の子孫」という特別な肩書を得たような気がして興奮したのを覚えている。

 

現地を訪問するにあたり、具体的な場所を特定する必要が出てきた。

スズメバチに網一本で立ち向かい、ついこないだまで毎日数㎞水泳することが日課だったパワフルで豪快な祖母だが、本音や記憶を聞き出そうとすると「しらん」「もう昔のことだでわからん」と逃げ出してしまう繊細なところがあったので、電話で長時間拘束して根掘り葉掘り尋問するのは得策ではなかった。

まず母親や伯母などから手がかりを得て大枠をつかんでおき、どうしてもわからないところだけを少しずつ聞くことにした。(曽祖父はとうの昔に亡くなり、曽祖母は施設に入っていたし、大伯父とは面識がなく、大叔母は当時幼すぎた)

 

わかったのは以下のことである。

・曽祖父が満鉄の臨時雇いとして満州に渡ることになり、曽祖母や兄妹とともに同行した。

・滞在期間は短く、曽祖父が現地で招集されると身重の曽祖母は子供を連れて帰国。本土で終戦を迎えた。

・住んでいたのは「○○」という村で、鉄道の駅があった。

・駅の北側には日本人街と小学校があったが、家は現地人が暮らす南側の東の外れにあった。村の外れに出ると川に架かった橋を汽車が渡るのが見えた。

 

話し始めると芋づるを引くように思い出が蘇ってきたらしく、家から小学校まで毎日線路をまたいで長い道を歩いたこと、言葉の通じない現地の子供たちと遊んだこと、トウモロコシ畑でほおずき狩りに夢中になって帰りが遅くなり、心配した母親に思いっきりぶたれたことなどを教えてくれた。

 

祖母の懐かしい景色を見るために、訪れる場所の候補として祖母の暮らした家、通った小学校、駅舎、村はずれの橋を挙げる。衛星写真では小学校と駅舎までははっきりと認めることができた。

 

特徴に合致する村が現存しており、大企業である南満州鉄道の記録は近隣の大学や国会図書館に多く残されていることから、当初調査は順調に進むかに思えた。

しかし曽祖父が満鉄に勤めていた期間は短く、戦末期の混乱していた時期であったため、手に取ることができるまとまった記録からは曽祖父の名は見つからなかった。社宅のリストなどもないようだ。

地図をあたってみたが、旧測量部が作成した地図は縮尺が大きすぎ、今でいう住宅地図のようなものも地図室にはない。よしんばあったとして、大都市のはずれにある小さな村までカバーしているとは思えない。

満鉄関係者の記録を保管し調査依頼を受け付けていた満鉄OB会は、つい二、三年前に解散してしまって、以前のような水準での調査は遂行できないかもしれないとのことだった。

 

八方塞がりに思えたが、わずかな希望を託して、満鉄OB会の当面の窓口となっている宛先に祖母の足跡を追っている旨連絡してみることにした。

 

すると思っていたより迅速に返答が来た。手元にある情報を送ると、曽祖父母の名前、生年月日や日本での住所までが一致する雇用記録があったという。広い国会図書館の中を駆けずり回り見づらい活字とにらめっこした時間が嘘のような成果である。

さすがに現地の住所まではわからなかったが、曽祖父がどういう雇用形態でどのくらい勤めていたかや、社員の籍を抜かずに応召したため戦後に年金を受け取ることができたことなど、当時をしのぶ手がかりを得ることができたし、衛星写真をよく見てもわからなかった橋の位置についても一緒に考えてくれた。

 

雇用記録のコピーがほしければ3000円だか5000円だかかかるということだったが、ここまで調べてくれたお礼にと、コピーを買い取ることにした。送られてきた封筒にはコピーとともに当時の満州の状況や資料から読み取れることなどを詳細に記した文書も入っていて、とてもありがたかった。

帰省の折に祖母に封筒を渡したところ、公に父親の記録が残っていたのがとても感慨深かったようで、今度妹(大叔母)が訪ねてくるときに一緒に見ようかと言ってくれ、おばあちゃん子の私としてはもうこれだけでかなりの達成感があった。

 

 9月に予定していた旅行は友人の趣味の観光に便乗する形で、旅程のうち一日を私のために割いてくれることになっていた。わざわざ同行してくれるのだから、地図のココ!というところまで特定してから行きたい…と思っていたが、多忙にまぎれて特に詳細を詰めることもなく、その日が来てしまった。

 

 

入国してから村に近い大都市へは鉄道で向かったが、近づくごとになんだかはらわたが落ち着かずそわそわした状態が続いた。全然調査をしてこなかったから無駄足を踏ませたら申し訳ないという緊張感で、あんなに楽しみにしていた当日の朝は最悪の気分だった。 

村に停車する列車は1日に上下1本ずつしかないため、ホテルのフロントで貸切タクシーを呼んでもらう予定だった。しかし頼んでみると、中国ではあまり貸切での利用はしないし、騙されるかもしれない、うちの専属運転手を3時間300元で雇ってはどうか、という。

中国語での交渉を引き受けてくれた同行者はまあ想定内の出費だと請け合ってくれたが、中国で100元札を何枚も出すことは滅多にない。また気が重くなった。

 

運転手は、スーツをパリッと着こなして感じの良さそうな30代のお兄さんだった。わりと好きなタイプだ。愛車はよく手入れの行き届いた速そうなトヨタ車で、地方都市に住む働き盛りとしてそれなりによいお給料をもらっていそうな印象を受ける。もっとも今の中国はドイツ車が北京じゅうを走っている程度に景気が良いので、地方でもこれくらい普通なのかもしれない。

 

市の中心部からしばらく走ると途端に悪路になった。市外へ出る唯一のルートは現在ラウンドアバウト造成工事中で、舗装されていない穴だらけの道路を車やバス、バイクが我先に通ろうとする。黒いピカピカの日本車はあっという間に砂まみれになってしまった。

そびえ立つ団地を抜けてからは、周囲はトウモロコシ畑へと変貌する。白樺に囲まれた東北部らしい道が続き、やがて舗装路に出た。目的の村を東西に貫く幹線道路だ。道路沿いは食堂や商店、団地、広場、工場などもあり、線路の北側に村の機能が集中しているようだ。

 

まずは小学校を探すことにする。私が衛星写真と道路地図から作成したガバガバ図(なんの不具合か地図アプリの道路情報のレイヤーが数km単位でズレてしまっていたので、そのままでは使えなかったのだ)と、同行者が用意した中華製地図アプリを照らし合わせると、確かに目星をつけた場所に学校らしき施設が登録されていた。

運転手のお兄さんは都度車を降りて村民に道を聞き、迷いやすい生活道路を進んでいく。しかし一向にそれらしい場所は見つからない。工場やまだ開発されていない空き地が柵の向こうに広がっているばかりだ。

 

シェシェしか言えない私に代わって同行者が旅の目的をお兄さんに伝えたので、 お兄さんは小学校があるのかどうかまで聞き込みをしてくれているようだ。300元の働きをしてくれているなあ、と同行者が感心する。

聞き込みの結果は芳しくなかった。そもそも今このあたりに学校などないらしい。

 

村内を流しているうちに謎の古い客車と機関車が置かれているのが発見され、同行者がにわかに興奮し始めた。今回の成果はそれくらいか…と錆びた緑皮車を眺めていると、我々を警戒する犬の吠え声に反応して住人が現れた。聞けば、なんでもこの車両はうちが買い取ったんだという話で、そのうちに同行者が客車の足に「住友金属」の銘があると言い出した。どうやら満鉄時代の車両のようだ。

祖母は満州を去る際、他の日本人とともにすし詰めになって列車に乗り込んだという(乗ったのは貨車だったと言っていた気もする)。あるいは、曽祖父はこの村と勤めていた都市を鉄道で行き来していたはずだった。もしかして曽祖父や祖母がいた頃この車両もこの辺りを走っていたのだろうか。

 

村民の話と村の様子を総合すると、今は家などに囲まれてしまって近づけないが、学校のような構えの門と平屋の建物は存在しているらしい。一生懸命背伸びしてその屋根を確認し、通学路だったかもしれない場所を写真におさめてよしとする他なかった。

 

次に向かったのは、村の南側にある駅舎だ。

この村を通る路線は東清鉄道時代からあったもので、ここに来る前に立ち寄った別の廃駅はその時代の駅舎が残っていた。そこと同じ程度には開発が進んでいないようだから、曽祖父や祖母が利用したであろう駅舎もまだあるかもしれなかった。

線路の南側は打って変わって、村と呼ぶにふさわしい煉瓦造りの古い民家が立ち並んでいた。北側を散策しているときも感じていたが、村内はとにかく堆肥の臭いがひどく、大小のハエが飛び回っている。村民が代々トウモロコシ栽培で生計を立てているからなのだろうが、祖母もこんな臭いの中で暮らしていたのかと考えると、なんだかありがたい匂いのようにも思えてくる(でも、くさいものはくさい)。

 

駅についてみてがっかりした。駅舎はつい最近建て替えられたところで、作業員が建物の周りを舗装していた。一日に何人も乗らないだろうになぜよりによってこんな田舎駅を立派にする必要があるのか、もっと他にやることはないのか、と理不尽な怒りを抱きながら、執拗にあたりをうろついて古そうな構造物の写真を撮ることしかできない。

駅は旅客より荷物扱いを主としているようで、専用の窓口があった。トウモロコシを運ぶのかもしれない。それにしても誰もこない待合室にデジタルサイネージは要らないと思う。

 

チンケな駅舎から出てくると、お兄さんが村民のおじいさんと話し込んでいた。おじいさんの方はなんだかシャオリィベンとか言っているように聞こえる。近づいてきた我々に、おじいさんは険しい表情と身振り手振りで何かを必死に訴え始めた。言葉を解さない私でもこの老人が何を伝えたいのかなんとなくわかる。

中国で日本人だと身分を明かしても、いまどきこんなところに来るなんて珍しいな、といった反応が多く、先の戦争の話を持ち出されることは少ない。しかしこういう歴史のある国どうしなのだから想定はしておくべきだ。

私はまったく話がわからないので一所懸命神妙な顔をしているだけだったが、同行者二人の理解した範囲では「小さい頃に日本軍がやってきて村を作りかえてしまったんだ…ということを誰かから聞いた」という訴えで、お兄さんに助けを求めても「歴史の話だよ」と笑うだけだったらしい。終わる気配がないためシェシェ!と言い残して車に乗り込むと、おじいさんは仕方ないなという顔で手を振った。

 

最後に、祖母が暮らしていた村のはずれに行った。

三度目の正直で、確かに村はずれの小川の上を線路が渡っている箇所があった。補修されていて70年前の見かけのままではないようだが、小川と橋という風景は同じだから、当時をしのぶよすがくらいにはなるはずだ。流量の少ない小川はゴミだらけで異臭を放ち、お世辞にも郷愁を誘うとは形容できなかったが…。

祖母たちの家がどこにあったかまでは突き止められなかったので、小川沿いの道に通じている路地を全部撮影しながら南に下っていく。黄色い壁、赤い壁、鮮やかな色の花。岸は柳がそよぎ、公園として綺麗に整備されて街灯も立っていた。

南のはずれまで来るとその先は一面にトウモロコシ畑が広がり、遠くのなだらかな山並みまでが見通せた。この景色もきっと昔のままだろう。祖母がほおずき狩りをしたのはこのあたりだろうか。わからない。とても静かだ。

 

その日は曇っていたが日が傾いているのは感じられた。もうすぐ約束の時間になる。

よく働いてくれたお兄さんとその愛車、我々とで記念写真を撮った。これで村ともお別れだ。何もないこんな農村にはもう滅多に来ることもないだろう。もったいないから、車窓に向けてビデオを回した。

 

ホテルまではあっという間だった。高速鉄道を通すために大工事中の巨大な駅、そびえ立つビル、常に渋滞してクラクションがひっきりなしの市内に降り立てば、今や日本を遠く追い越したという中国経済を眼前にした心地がする。あの時代に取り残されたような農村から本当に遠いところに来てしまったみたいだ。

 

 

翌日ここから次の都市に向かうための列車に乗った。大好きな寝台で昼寝を決め込む直前に、この列車が村を通ることに気づいた。やがて速度を増した車窓にほんの一瞬だけ、あの小川と赤いレンガの町並みが映り、流れていった。