おうち帰りたいブログ

自分のための話

似てる有名人まとめ

 一般ピープルとヒトについて話していると「その人って芸能人でいうと誰似なの?」と聞かれることがあります。

 この「記憶にある芸能人の顔から当該人物に似た顔を検索する機能」は一般の人にはごくあたりまえに実装されているようですが、芸能ネタに疎く、またこぎれいな顔が全部同じに見える病気にかかっている私には大変答えづらくて困っているところです。

 ただまあ、少しでも顔のいい芸能人に例えられたほうが嬉しいというのはわかります。恋人のひいき目だけでなく、大多数から見てもまあまあ良い顔だという評価がもらえるのは自信につながりますから。

 この記事はそんな貴重な私についての評価を集めたものです。誰か気が向いたら平均顔作って。

 

1.小泉純一郎 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e6/Junichiro_Koizumi_20010426.jpg

 ベートーヴェンみたいな髪型してたせいで総理大臣にされてしまった。

 

2.石川遼

http://www.touch-express.net/calendar/goods_image/A40_I2.jpg

 若返ったけどまだ男。

 

3.浅田真央

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https://news.mynavi.jp/photo/article/20180324-605609/images/002l.jpg

 要はおばあちゃん受けする顔ということらしい。

 

4.アンジェラ・アキ

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https://www.amazon.co.jp/手紙-拝啓-十五の君へ-アンジェラ・アキ/dp/B001CY1YUS

 天パ眼鏡で歌が上手い→アンジェラアキ。

 

5.リリアン・ギッシュ

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https://www.amazon.co.jp/リリアン・ギッシュ-写真-Portrait-Photograph-10/dp/B07HMX7VLQ


 大学デビューで眼鏡をやめたら鼻梁の高さが目立ってガイジンにされてしまう。

 

6.《アルジェリア風のパリの女たち》ルノアール の右下のモブf:id:ouchikaeritaai:20190520184515j:plain

https://www.musey.net/2427

 とうとう生身の人間をやめる。

 

7.《Soir d'ete》Frederick Arthur Bridgman

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https://www.pinterest.jp/pin/41306521553535223

 どうもエスニック系のイメージであるらしい。

 

8.《忘れえぬ人》クラムスコイ

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https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/18495

 目つきが悪い。

 

9.あいみょん

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https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190222-00010004-jwave-musi

 この角度推奨。

 

10.《黄色いドレスの女性(画家の妻)》クルツヴァイル

http://www.nact.jp/exhibition_special/2019/wienmodern2019/img/07.jpg

 絵画好きからのお墨付きらしい。

私が彼氏にオフパコしてほしくない理由

 先日、彼氏と手羽先を食べながら飲んでいるときのことです。「不機嫌になるかもしれないけど…」と何か話したげなそぶりを見せる彼氏。我々は普段から何事も包み隠さず忌憚のない意見を述べ合うことを家訓(?)としています。先を促してみると以下のような話でした。

 

「他の人とセックスするとどう違うのか知りたい」

「オフパコしてみたい/してもいい顔の相手がいる」

「でもこの欲求は自分でも折り合いがついていない」

 

 それに対し、私は以下のように回答しました。

「その欲求を否定はしづらいが、内容的に肯定はできない」

「タバコをやめてほしい・薬物に手を出してほしくないのと同種の気持ち」

「その欲求に制限を加えてよいというのが交際・婚姻の契約内容なのではないか」

 

その場での議論はそれにとどまりました。リベラルを自認している手前、また何事もまず先入観をおいて検討してみるという基本的な姿勢に忠実に従った結果、頭ごなしに「そんなのダメ」と断言せず中立を装ってやんわりとたしなめる程度の発言に着地したのです。しかしこれ以降、彼氏がオフパコ相手と親密になって自分から離れていくという具体的な想像に苦しめられるようになりました。

 

友人に相談したところ「まずそんな話をする時点で相手の気持ちを考えておらず、信頼関係を揺らがせるような言語道断の所業である」という厳しい意見が得られました。すべてを議論しつくして齟齬のない関係を築こうとするあまり、自分の感情とか自尊心といった人格の基礎的な部分を守ることを忘れていたようです。

 

しかし、やはり「みんなダメって言ってる、ダメやと思ってへんのお前だけ」の一点を貫くだけでは、ああだこうだ理屈をこねる相手と戦うには心もとなく、同じく理屈っぽい自分自身を納得させるのにも足りません。他の人とセックスしないでほしいと情緒に訴えかけて表面的には受け入れられても、一度芽生えた不信感を拭い去ることはできません。

そこで、彼氏がオフパコすべきでない理由と私が相手の股間の自由を制限してよい理由について、考えたことを整理しておくことにしました。

 

 

0. なんかイヤ

まず何かを論じるとき、その出発点は必ずしも客観的な知識や中立の意識にのみ基づかなければならないということはありません。なんかイヤだなと思うところから始めたっていい。イヤなのはなぜなのか、それを補強してくれるストーリーを提出できそうか、ということが大事です。

オフパコ、イヤですね。

自分がこれはと思って選んだ男に、倫理観のない、自分より劣る(であろう)女とつるんでほしくなくないですか?私のものベタベタ触ってほしくないですよね。どこの誰とも知らない人と竿姉妹・穴兄弟になるのもイヤです。彼氏がオフパコして帰ってきた日にはもう触ってほしくないと思う。保健所行ってよく調べてもらったとしてもだめ。あと、そんなめちゃくちゃやる人たちと関係を続けていたらある日絶対面倒ごとに巻き込まれると思いませんか?

 要約すると、オフパコが嫌なのは倫理的にアウト、汚いからアウト、厄介だからアウト、この三つにまとまりました。これらを一つずつ検討していきます。

 

1. 倫理的な問題

セックスをする=無防備な状態での接触を許すという行為には二つのリスクがあります。一つには、密室の中で何も身を守るものを持たずに他者と相対するという明らかにリスクの高い状況。二つには、性という人間にとって根源的な部分を他者の批判のもとに晒すリスク。

セックスはその人の肩書や経歴といった外付けの権威、後天的に身につけた能力が代行してくれるものではなく、そういったもので普段覆われている生身の身体、生まれた時から好むと好まざるとにかかわらず常にともにあった、切り離し得ない自分の性的な部分を用いて行うものであって、信頼のおけない人間にこれを晒すことは性的な自分によほど自信のある者でない限り無視できない/してはならないリスクです。簡単に言えば、オフパコをしようというのなら、あなたを裏切ることに何の抵抗もない人たちによって「あいつ股臭え」とか「短小の早漏だった」などの好ましくない評判を広められるのを覚悟するべきだということです。

だから、常識的なリスク感覚の持ち主たちにとって、一定の信頼関係においてそのリスクを回避できるという証明および契約が、交際また婚姻だと考えます。※

この条件だけなら安全にセックスできる関係は相手との信頼関係さえ証明できればいくつあってもよいことになりますが、我々は基本的に一夫一妻制の文化の中で生まれ育ち、同時に交際してよい相手は一人までという考えが刷り込まれていますよね。

たしかに一夫多妻(一妻多夫)制の文化は過去ひろく存在し、また現在も一部地域に存在しており、フリーセックスなど一対一の婚姻にとらわれない関係を生きようという新しい運動もあります。しかしそこでも別の相手への嫉妬など関係者間の感情的な問題は解決されたわけではありません。すべての妻に平等に接することができないなら第二、第三の妻をめとるべきではないとはコーランにも書いてあるそうです。

度量も甲斐性も石油王ほどでないごくふつうの人間が、交際というこの決して軽くはない関係をいくつももてあそんで関係者間の平和を維持することができるのか、自分は果たして他者の人生にそこまで責任を持てるのか、ということはよく自問すべきでしょう。

 

※ 逆説的にそのハードルを越えた相手を交際・婚姻に足る相手と誤認する(セックスしたら好きになっちゃった)おそれがあるのも怖い。これを金銭的な契約関係に移したものが風俗だろうか。風俗ならまだよい気もする、少なくとも客と店員の関係であって、商売上向こうがその一線を越えてはこないだろうという信用が多少存在するからだ。

 

2. 衛生管理上のリスク

不特定多数との性的接触が性病の主な感染経路だというのは周知の事実でしょう。たとえ同じ相手とでもコンドームを使うなどして直接の粘膜接触を避けるべきであるとは広く言われていることです。数年前から国立感染症研究所でも若年層での梅毒流行が報告されており、日本の股間の衛生環境はかなり危険な状態であるといえます(梅毒はオーラルセックスでも感染するのでかさねて警戒すべき)。

性病の件数を人口で割ればたしかにわずかな数字にはなります。しかし、気軽にオフパコに応じるタイプの人間は他にも無数の関係を持っているはずで、そんな界隈と接触すればキャリアをツモってしまう可能性は慎重に貞操を守っている場合の割合よりぐっと上がるはずです。

性病は単に股間が痒くなるばかりではなく、梅毒などは潜伏しながら徐々に全身を蝕んでいきます(痒いだけでも充分鬱陶しいが…)。病院に行けばすぐ検査結果がわかるというわけではないし、治療にも長期間の投薬が必要になるそうです。感染してしまったら根治するまでは新しく交際相手を見つけるのにも抵抗があります。子供にも先天性の障害が出る恐れがあり、人生設計が大きく狂ってしまうでしょう。

自己責任でフリーセックスして自業自得になるだけなら誰も止めはしません。どうぞご勝手にさようなら。でもパートナーがそれを隠していて自分まで性病ネットワークに組み込まれたらたまったものではないですね。好奇心から身近な人まで危険に巻き込むような人は、本当の意味で大事な人を大事にできていないですよ。

私は性病にはなりたくない。

 

3. 安全保障上のリスク

セックスの相手を制限することの利点は、女体側にとっては意図しない妊娠を避けられるものとして一般に理解されていますが、男体側にとっても意図しないタネの拡散を防止することは重要であるはずです。

いくら男体側で避妊に気を付けていても向こうが「あなたの子よ」と言ってきたらどうするか。それを否定してあげるのには余分なコストがかかりますね。DNA鑑定は2万円からだそうですよ。さらには、こちらにその気がなくても1で触れたようにセックスがきっかけでガチ恋されたらどうするか。不貞をネタに強請られるかもしれないし、家や職場に現れたら社会的な信用は失墜します。厄介女性につけ狙われるだけで普段の生活が脅かされるわけです。そしてその累は自分自身だけでパートナーやその他にも及ばないとは言い切れません。

これらはあくまで一つの可能性に過ぎません。もしかしたらそこまで悪い事態は起こらないかもしれない。でも「ちょっとセックスしてみたいな~」くらいでこれだけのリスクを背負い込めますか、ということです。

 

 

まとめ

 

私は彼氏には絶対オフパコしてほしくありません。

彼氏がいろいろなものに依存して生きているのは知っています。生きていても楽しくないし死にたいといつも言っているから、煙草も本当はやめてほしいけど少しでも人生を生きやすくするのに必要ならあまり強くは言えないな、と弱気に思っています。

でもオフパコだけは絶対にダメです。

彼氏は自分の人生のことどうでもいいと考えているし、あなたがひどい目にあうと私もつらいからと伝えても「重たいなあ」としか言ってくれないのですが、つらつらこういう理由で私が彼氏の股間の自由を禁じたいと思います。

コンテンツ履修録(-20180108)

10コンテンツ(11月-1/8まで)

チャイナ・ミエヴィル『都市と都市』
知人推薦。
見ないために見て見ないということ。二重思考に通ずる。
東欧的なイメージ。バディものアツい。

 

フィリップ・K・ディックアンドロイドは電気羊の夢を見るか?
原典参照。
人間かアンドロイドかではなく人間的であるか非人間的であるかということ。この主題は映画作品ではあまり取り上げられていないように思われる。
共感能力、事実よりも信仰。足るを知る。

 

オーウェル1984年』
古典。
生産の飽和に対する処方としての戦争。体制を憎んでも理解し闘うことはせず、隠れ作業的に人生の快楽を求めるジュリア。言語の支配が思考の支配。理念が先行し現実が追従する。

帯の文言がクサいと思ったがこの時代にジュリア的な生き方をする人は私含め多いので危惧はわからんでもないと思った。

 

モーパッサン女の一生
古典。
個々の出来事に対する失望とわずかな怒り、人生についての俯瞰的視点の欠如。小説的な勇気も力も持たない大方のふつうの人間の生き様。
ノルマンディの彩度高い風景。

 

サン=テグジュペリ星の王子さま
古典。知人推薦。
数年おきに流行る。反抗心を刺激し、皮肉に乗るか乗らないか、取り合うか取り合わないかでしか捉えられず。自己啓発が好きな人に受ける。
飲んべえの星は好き。

 

上橋菜穂子『鹿の王』
知人推薦。
ファンタジーの皮をかぶった医療系小説。英雄化という疎外。医療と宗教、病気と病(やまい)。

ファンタジー的没入はしづらいのでファンタジーだと思って読むと読みづらいだろうなと思った。

 

葛西敬之『未完の国鉄改革』
知人推薦。
国鉄はもはや独占インフラではなかった。収益調整はどこまでならいいのか。クリームスキミング労働組合との駆け引き。当時は労>使だったが今は?
おっさんの武勇伝を読むのは好き。

 

篠崎尚夫『鉄道と地域の社会経済史』
第5章 小口混載と鉄道貨物取扱業 高宇 のみ参照。
これも含め鉄道貨物に関しては主に明治から戦前までの研究が多いらしい。あまり興味がなく知りたい事項に関係があるようにも思われない。鉄道貨物は民間発祥で、戦争期に他の通運が途絶するたびにシェアを拡大。

 

映画「ブレードランナー2049」
話の筋に気を取られる。
愛の証明の表現はすすんで壊れやすい身体(可死性)を得ること以外になかったのか。
一つの人格的人間であることの条件は自分だけの死または自分だけの記憶であると考えられるが、後者は前作および今作でも疑問が呈されている。
一度は実父と思い命をかけた偽の息子に注ぐ本物の雪と、父を知らずとも充足して過ごす本物の娘が戯れる偽の雪。

 

アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」および関連作品
古典。
思ったよりSF。セカイ系、主人公の長い独白ナレーションの源流といえるか。
放課後決まった場所にたむろし気の向くまま若干何かをするという懐かしく眩しい高校生活。当時鑑賞していればこれになりたいと思っただろう(見ていなくてもなれたのでかえって見ずにいて良かった)と思う。
長門が好き。

祖母の足跡を訪ねる

9月中頃、戦前に祖母が滞在していた中国の農村を訪ねた。

 

たまたま友人二人と中国東北部(旧満州国地域)を旅する予定があり、せっかくだからとその旅程に組み込んでもらったのだった。

 

祖母は(少なくとも私の前では)あまり思い出話をするたちではなく、曽祖母と共に戦前満州にいたことなどもつい数年前に教えてくれたことだ。それを知ったときは「満州」「引揚者」という歴史上のぼんやりとした概念がぐっと身近になり、自分までもが「引揚者の子孫」という特別な肩書を得たような気がして興奮したのを覚えている。

 

現地を訪問するにあたり、具体的な場所を特定する必要が出てきた。

スズメバチに網一本で立ち向かい、ついこないだまで毎日数㎞水泳することが日課だったパワフルで豪快な祖母だが、本音や記憶を聞き出そうとすると「しらん」「もう昔のことだでわからん」と逃げ出してしまう繊細なところがあったので、電話で長時間拘束して根掘り葉掘り尋問するのは得策ではなかった。

まず母親や伯母などから手がかりを得て大枠をつかんでおき、どうしてもわからないところだけを少しずつ聞くことにした。(曽祖父はとうの昔に亡くなり、曽祖母は施設に入っていたし、大伯父とは面識がなく、大叔母は当時幼すぎた)

 

わかったのは以下のことである。

・曽祖父が満鉄の臨時雇いとして満州に渡ることになり、曽祖母や兄妹とともに同行した。

・滞在期間は短く、曽祖父が現地で招集されると身重の曽祖母は子供を連れて帰国。本土で終戦を迎えた。

・住んでいたのは「○○」という村で、鉄道の駅があった。

・駅の北側には日本人街と小学校があったが、家は現地人が暮らす南側の東の外れにあった。村の外れに出ると川に架かった橋を汽車が渡るのが見えた。

 

話し始めると芋づるを引くように思い出が蘇ってきたらしく、家から小学校まで毎日線路をまたいで長い道を歩いたこと、言葉の通じない現地の子供たちと遊んだこと、トウモロコシ畑でほおずき狩りに夢中になって帰りが遅くなり、心配した母親に思いっきりぶたれたことなどを教えてくれた。

 

祖母の懐かしい景色を見るために、訪れる場所の候補として祖母の暮らした家、通った小学校、駅舎、村はずれの橋を挙げる。衛星写真では小学校と駅舎までははっきりと認めることができた。

 

特徴に合致する村が現存しており、大企業である南満州鉄道の記録は近隣の大学や国会図書館に多く残されていることから、当初調査は順調に進むかに思えた。

しかし曽祖父が満鉄に勤めていた期間は短く、戦末期の混乱していた時期であったため、手に取ることができるまとまった記録からは曽祖父の名は見つからなかった。社宅のリストなどもないようだ。

地図をあたってみたが、旧測量部が作成した地図は縮尺が大きすぎ、今でいう住宅地図のようなものも地図室にはない。よしんばあったとして、大都市のはずれにある小さな村までカバーしているとは思えない。

満鉄関係者の記録を保管し調査依頼を受け付けていた満鉄OB会は、つい二、三年前に解散してしまって、以前のような水準での調査は遂行できないかもしれないとのことだった。

 

八方塞がりに思えたが、わずかな希望を託して、満鉄OB会の当面の窓口となっている宛先に祖母の足跡を追っている旨連絡してみることにした。

 

すると思っていたより迅速に返答が来た。手元にある情報を送ると、曽祖父母の名前、生年月日や日本での住所までが一致する雇用記録があったという。広い国会図書館の中を駆けずり回り見づらい活字とにらめっこした時間が嘘のような成果である。

さすがに現地の住所まではわからなかったが、曽祖父がどういう雇用形態でどのくらい勤めていたかや、社員の籍を抜かずに応召したため戦後に年金を受け取ることができたことなど、当時をしのぶ手がかりを得ることができたし、衛星写真をよく見てもわからなかった橋の位置についても一緒に考えてくれた。

 

雇用記録のコピーがほしければ3000円だか5000円だかかかるということだったが、ここまで調べてくれたお礼にと、コピーを買い取ることにした。送られてきた封筒にはコピーとともに当時の満州の状況や資料から読み取れることなどを詳細に記した文書も入っていて、とてもありがたかった。

帰省の折に祖母に封筒を渡したところ、公に父親の記録が残っていたのがとても感慨深かったようで、今度妹(大叔母)が訪ねてくるときに一緒に見ようかと言ってくれ、おばあちゃん子の私としてはもうこれだけでかなりの達成感があった。

 

 9月に予定していた旅行は友人の趣味の観光に便乗する形で、旅程のうち一日を私のために割いてくれることになっていた。わざわざ同行してくれるのだから、地図のココ!というところまで特定してから行きたい…と思っていたが、多忙にまぎれて特に詳細を詰めることもなく、その日が来てしまった。

 

 

入国してから村に近い大都市へは鉄道で向かったが、近づくごとになんだかはらわたが落ち着かずそわそわした状態が続いた。全然調査をしてこなかったから無駄足を踏ませたら申し訳ないという緊張感で、あんなに楽しみにしていた当日の朝は最悪の気分だった。 

村に停車する列車は1日に上下1本ずつしかないため、ホテルのフロントで貸切タクシーを呼んでもらう予定だった。しかし頼んでみると、中国ではあまり貸切での利用はしないし、騙されるかもしれない、うちの専属運転手を3時間300元で雇ってはどうか、という。

中国語での交渉を引き受けてくれた同行者はまあ想定内の出費だと請け合ってくれたが、中国で100元札を何枚も出すことは滅多にない。また気が重くなった。

 

運転手は、スーツをパリッと着こなして感じの良さそうな30代のお兄さんだった。わりと好きなタイプだ。愛車はよく手入れの行き届いた速そうなトヨタ車で、地方都市に住む働き盛りとしてそれなりによいお給料をもらっていそうな印象を受ける。もっとも今の中国はドイツ車が北京じゅうを走っている程度に景気が良いので、地方でもこれくらい普通なのかもしれない。

 

市の中心部からしばらく走ると途端に悪路になった。市外へ出る唯一のルートは現在ラウンドアバウト造成工事中で、舗装されていない穴だらけの道路を車やバス、バイクが我先に通ろうとする。黒いピカピカの日本車はあっという間に砂まみれになってしまった。

そびえ立つ団地を抜けてからは、周囲はトウモロコシ畑へと変貌する。白樺に囲まれた東北部らしい道が続き、やがて舗装路に出た。目的の村を東西に貫く幹線道路だ。道路沿いは食堂や商店、団地、広場、工場などもあり、線路の北側に村の機能が集中しているようだ。

 

まずは小学校を探すことにする。私が衛星写真と道路地図から作成したガバガバ図(なんの不具合か地図アプリの道路情報のレイヤーが数km単位でズレてしまっていたので、そのままでは使えなかったのだ)と、同行者が用意した中華製地図アプリを照らし合わせると、確かに目星をつけた場所に学校らしき施設が登録されていた。

運転手のお兄さんは都度車を降りて村民に道を聞き、迷いやすい生活道路を進んでいく。しかし一向にそれらしい場所は見つからない。工場やまだ開発されていない空き地が柵の向こうに広がっているばかりだ。

 

シェシェしか言えない私に代わって同行者が旅の目的をお兄さんに伝えたので、 お兄さんは小学校があるのかどうかまで聞き込みをしてくれているようだ。300元の働きをしてくれているなあ、と同行者が感心する。

聞き込みの結果は芳しくなかった。そもそも今このあたりに学校などないらしい。

 

村内を流しているうちに謎の古い客車と機関車が置かれているのが発見され、同行者がにわかに興奮し始めた。今回の成果はそれくらいか…と錆びた緑皮車を眺めていると、我々を警戒する犬の吠え声に反応して住人が現れた。聞けば、なんでもこの車両はうちが買い取ったんだという話で、そのうちに同行者が客車の足に「住友金属」の銘があると言い出した。どうやら満鉄時代の車両のようだ。

祖母は満州を去る際、他の日本人とともにすし詰めになって列車に乗り込んだという(乗ったのは貨車だったと言っていた気もする)。あるいは、曽祖父はこの村と勤めていた都市を鉄道で行き来していたはずだった。もしかして曽祖父や祖母がいた頃この車両もこの辺りを走っていたのだろうか。

 

村民の話と村の様子を総合すると、今は家などに囲まれてしまって近づけないが、学校のような構えの門と平屋の建物は存在しているらしい。一生懸命背伸びしてその屋根を確認し、通学路だったかもしれない場所を写真におさめてよしとする他なかった。

 

次に向かったのは、村の南側にある駅舎だ。

この村を通る路線は東清鉄道時代からあったもので、ここに来る前に立ち寄った別の廃駅はその時代の駅舎が残っていた。そこと同じ程度には開発が進んでいないようだから、曽祖父や祖母が利用したであろう駅舎もまだあるかもしれなかった。

線路の南側は打って変わって、村と呼ぶにふさわしい煉瓦造りの古い民家が立ち並んでいた。北側を散策しているときも感じていたが、村内はとにかく堆肥の臭いがひどく、大小のハエが飛び回っている。村民が代々トウモロコシ栽培で生計を立てているからなのだろうが、祖母もこんな臭いの中で暮らしていたのかと考えると、なんだかありがたい匂いのようにも思えてくる(でも、くさいものはくさい)。

 

駅についてみてがっかりした。駅舎はつい最近建て替えられたところで、作業員が建物の周りを舗装していた。一日に何人も乗らないだろうになぜよりによってこんな田舎駅を立派にする必要があるのか、もっと他にやることはないのか、と理不尽な怒りを抱きながら、執拗にあたりをうろついて古そうな構造物の写真を撮ることしかできない。

駅は旅客より荷物扱いを主としているようで、専用の窓口があった。トウモロコシを運ぶのかもしれない。それにしても誰もこない待合室にデジタルサイネージは要らないと思う。

 

チンケな駅舎から出てくると、お兄さんが村民のおじいさんと話し込んでいた。おじいさんの方はなんだかシャオリィベンとか言っているように聞こえる。近づいてきた我々に、おじいさんは険しい表情と身振り手振りで何かを必死に訴え始めた。言葉を解さない私でもこの老人が何を伝えたいのかなんとなくわかる。

中国で日本人だと身分を明かしても、いまどきこんなところに来るなんて珍しいな、といった反応が多く、先の戦争の話を持ち出されることは少ない。しかしこういう歴史のある国どうしなのだから想定はしておくべきだ。

私はまったく話がわからないので一所懸命神妙な顔をしているだけだったが、同行者二人の理解した範囲では「小さい頃に日本軍がやってきて村を作りかえてしまったんだ…ということを誰かから聞いた」という訴えで、お兄さんに助けを求めても「歴史の話だよ」と笑うだけだったらしい。終わる気配がないためシェシェ!と言い残して車に乗り込むと、おじいさんは仕方ないなという顔で手を振った。

 

最後に、祖母が暮らしていた村のはずれに行った。

三度目の正直で、確かに村はずれの小川の上を線路が渡っている箇所があった。補修されていて70年前の見かけのままではないようだが、小川と橋という風景は同じだから、当時をしのぶよすがくらいにはなるはずだ。流量の少ない小川はゴミだらけで異臭を放ち、お世辞にも郷愁を誘うとは形容できなかったが…。

祖母たちの家がどこにあったかまでは突き止められなかったので、小川沿いの道に通じている路地を全部撮影しながら南に下っていく。黄色い壁、赤い壁、鮮やかな色の花。岸は柳がそよぎ、公園として綺麗に整備されて街灯も立っていた。

南のはずれまで来るとその先は一面にトウモロコシ畑が広がり、遠くのなだらかな山並みまでが見通せた。この景色もきっと昔のままだろう。祖母がほおずき狩りをしたのはこのあたりだろうか。わからない。とても静かだ。

 

その日は曇っていたが日が傾いているのは感じられた。もうすぐ約束の時間になる。

よく働いてくれたお兄さんとその愛車、我々とで記念写真を撮った。これで村ともお別れだ。何もないこんな農村にはもう滅多に来ることもないだろう。もったいないから、車窓に向けてビデオを回した。

 

ホテルまではあっという間だった。高速鉄道を通すために大工事中の巨大な駅、そびえ立つビル、常に渋滞してクラクションがひっきりなしの市内に降り立てば、今や日本を遠く追い越したという中国経済を眼前にした心地がする。あの時代に取り残されたような農村から本当に遠いところに来てしまったみたいだ。

 

 

翌日ここから次の都市に向かうための列車に乗った。大好きな寝台で昼寝を決め込む直前に、この列車が村を通ることに気づいた。やがて速度を増した車窓にほんの一瞬だけ、あの小川と赤いレンガの町並みが映り、流れていった。

祖父の実家を訪ねる

8月19日、母と共に祖父の実家を訪ねた。

 

上京を明日に控えたその日は、10年もの間日当たりのよい私の部屋に吊り下げられてビリビリに劣化してしまったカーテンをやっと新調するために、家の最寄りのカーテンメーカーの直営店に行く予定だった。しかし、テーマパークに行く従姉を反対方向の駅まで送る用事ができ、かわりにその駅の最寄りの店舗に行くことになった。

 

カーテン選びは楽しいものだった。窓が4つもあって夏ともなればひと時といられないほど暑くなる部屋のために、遮熱性の高いボイルカーテンと、白地に花柄が鮮やかなカーテンを色違いで揃えた(母の部屋にも同じボイルカーテンが選ばれた)。

 

袋を3つも提げて店を出る。まだ16時をまわっていなかったように思う。このまま帰るには惜しいような、ほどよい暑さの晴天だった。

ここ数年、母の車で二人出かけたときはどこかドライブしてから帰る習慣になっていた。「じじいの家このあたりだし、行くか」。母親はそう言って、カーナビに目的地を設定した。

 

じじいとは私の祖父のことである。たしか80歳で亡くなり、今年が三回忌であった。

祖父はおそらく孫が生まれてから「じいさん」(「分度器」と同じイントネーション)と呼ばれていたが、風呂の入り方から柿の木の剪定方法まで祖母をはじめとする同居家族と折り合いが悪く、また妙なところで頑迷であったため娘たちからも憎しみを込めて「じじい」と呼ばれることがあった。家族とほとんど言葉を交わさない時期が長く続いたが、ある夏の日に派手に転んで病院に担ぎ込まれ、末期の肺がんおよび新型認知症であるとの診断が下って施設に収容されてからは、週に3回の通いの世話を通じて家族とも打ち解けていった(認知症だったので、我々はともかく祖父がどう思っていたかはわからないが)。

そうして一年が経ったころ、帰省していた私はこれが最後になるとも知らず、祖母と伯母について面会に行った。抑制が効かず施設の網戸を破壊していた昨年が嘘のようにベッドの上で管につながれ、話しかけても目を合わせることしかできない痛々しい様子であった。布団からのぞく枯れ木のような手足はところどころ黒にえている。黒にえるとは、打撲などで黒い痣になるという意の方言である。祖父のそれはもう血の通わない組織が死んでそうなったものだ。

伯母はいつもするように優しく声をかけながら祖父の手をさすっていた。長子である伯母は特に祖父に可愛がられていたというし、元来優しい性格であったから祖父が家で無視されている時分も一人祖父を気づかっていた。私も恐る恐る触った。入院してから何度も面会したが、このとき初めて祖父に触れた。どんな手触りだったか覚えていない。痛そうに顔をしかめ腕に力を入れた様子だけをよく覚えている。触ったことの照れ隠しに「若者の精気を分けてやったのだ」と言ってごまかした。しかしその翌朝だったか、祖父は身罷った。

認知症が進行するとがんの痛みも感じないというが、面会したとき、今度私がシベリア鉄道に乗るという話にか細い声で旅行費用の心配をしてくれたくらいには、死ぬ前は正気に戻っていて、とても痛かったのではないか…というようなことをあとから考えた。

祖父は、なんというかとても面倒くさいところがあったが、人のいい人間だった。冬の日、小学生の私が親にいわくつきのお手玉を捨てられて泣いていると、祖父はゴミ箱からサルベージしたそれを洗って乾かしてくれたし、施設に入る前は私がその日のピルを落として探していたのを見て、あとで探し出してくれたりした。レーズンを偏食していたら1㎏くらいの袋を6つか8つ買ってきてくれたこともあったが、しかし当時祖父と話しづらい雰囲気だっために、これは一つも開けずに廃棄になってしまった。あのときもっと親切にしておけばよかったとか、そういうことを思うと今でも目頭が熱くなる。

皮肉なことだが、小さなお骨になってから祖父はよく家族の話題にのぼるようになった。死んだ人は悪く言えないのか、うちの家族がみんなツンデレだったのかどうか、よく祖父が今頃どうしているか話し合って笑っている。仏様のご飯は炊きたてを毎日供えなければならないが、炊いた日にしか持っていかないので「もっと飯をよこせ」と言っていそうだとか、小児の従姪が頂きもののお菓子を早く食べたいがために、仏壇に載せてお鈴を鳴らしたらすぐ回収してしまうから、呼び出されて来てみたら何もなくて困っているのではないか、とか。

 

だいぶ脱線したが、母が祖父を指して「じじい」と言うのには、嫌っていた時代もふまえて偲ぶ気持ちがあったのだと勝手に思っている。だから近くまできたついでに、祖父の実家に行くことを思いついたのだろう。

うちはなぜか親戚づきあいの少ない家で、私は誰かの法事にも行ったことがない(祖父の葬儀が初めてだ)し、祖父方筋の親戚に至っては人づてに存在を聞き知っただけである。そのため、親戚なら誰でも機会があれば会ってみたいといつも思っていた。母は祖父の母(「坂下のばあちゃん(これも分度器)」)に似ていると言われていたそうだから、私も似ているに違いない。ルーツをたどってみたくもあった。

 

界隈では有名な難読の地名と、神社と公園があったという母のかすかな記憶を頼りに、ドライブが始まった。母自身も祖父の運転で何度か来たことがあるだけで、最後に訪れたのは30年ほど前だという。片側3車線はある大きな国道を進み、このあたりと思われるところで細道に入っていく。母は「こんな感じの、藪に車を停めて歩いて行ったんだ」などとブツブツ言いながら田舎道をゆっくりと進んだり戻ったり、私はグーグルストリートビューを開いて記憶の助けにしたりして、やっとそれらしい場所を見つけることができた。神社の駐車場に停車してマックのバリューセットをかじり、歩いて藪を抜けて蚊に刺され、道を間違えて戻り、歩行距離をケチってより近い停車場を探して断念し、結局歩くことになった。ここでだいぶ時間をくった。

 

盆の送り火の跡が残る橋を渡った先の、藪(昔はここに車を停めたらしい)の陰に田んぼの端を埋めて建てたらしい家並があり、その間のほとんど畦と言ってよい細い舗装路を抜ける(「そうそう、この用水路で遊んだんだよなあ」)。

祖父の実家は、見事に田んぼのど真ん中にあった。

宅地化されず残った田には青々とした稲が夕日に映え、ここだけ一段とのどかな風景をとどめていた。

古くもなく新しくもない程度の二階建てで、ベランダに日よけの布がはためいている。

 

母は一通り眺めたら満足したようで、すぐに来た道を戻り始めた。私はここに住んでいるという祖父の姉(「ねえさん(分度器)」「坂下のおばさん」)に会ってみたかったから、振り返りつつ未練がましくじろじろ見ていた。

そのベランダに40-50代くらいの女性が見えた。続いて、家の陰からはしごを持って同じ年頃の男性が出てくる。ねえさんの息子夫婦だろうという。ほどなくして、小柄で丸っこい、しかし背筋の伸びたおばあさんが、息子と何か相談するために現れた。

「ああ、坂下のばあちゃんによく似とるわ」

すかさず「話さなくていいのか(私は話したいんだけど)」と聞いたが、もう付き合いもないから、といって母はさっさと行ってしまう。まあ順当に考えて、30年も会っていない親戚を前触れもなく訪問するのは常識外れだったかもしれない。

 

若い頃の祖父が暮らした場所に、今も祖父の姉とその家族が、自分の血のつながった人たちが生活しているのを垣間見るのは不思議な気分だった。

大伯母の小さな背と、田んぼに囲まれた小さな家が、今も瞼に残って消えない。