おうち帰りたいブログ

自分のための話

祖父の実家を訪ねる

8月19日、母と共に祖父の実家を訪ねた。

 

上京を明日に控えたその日は、10年もの間日当たりのよい私の部屋に吊り下げられてビリビリに劣化してしまったカーテンをやっと新調するために、家の最寄りのカーテンメーカーの直営店に行く予定だった。しかし、テーマパークに行く従姉を反対方向の駅まで送る用事ができ、かわりにその駅の最寄りの店舗に行くことになった。

 

カーテン選びは楽しいものだった。窓が4つもあって夏ともなればひと時といられないほど暑くなる部屋のために、遮熱性の高いボイルカーテンと、白地に花柄が鮮やかなカーテンを色違いで揃えた(母の部屋にも同じボイルカーテンが選ばれた)。

 

袋を3つも提げて店を出る。まだ16時をまわっていなかったように思う。このまま帰るには惜しいような、ほどよい暑さの晴天だった。

ここ数年、母の車で二人出かけたときはどこかドライブしてから帰る習慣になっていた。「じじいの家このあたりだし、行くか」。母親はそう言って、カーナビに目的地を設定した。

 

じじいとは私の祖父のことである。たしか80歳で亡くなり、今年が三回忌であった。

祖父はおそらく孫が生まれてから「じいさん」(「分度器」と同じイントネーション)と呼ばれていたが、風呂の入り方から柿の木の剪定方法まで祖母をはじめとする同居家族と折り合いが悪く、また妙なところで頑迷であったため娘たちからも憎しみを込めて「じじい」と呼ばれることがあった。家族とほとんど言葉を交わさない時期が長く続いたが、ある夏の日に派手に転んで病院に担ぎ込まれ、末期の肺がんおよび新型認知症であるとの診断が下って施設に収容されてからは、週に3回の通いの世話を通じて家族とも打ち解けていった(認知症だったので、我々はともかく祖父がどう思っていたかはわからないが)。

そうして一年が経ったころ、帰省していた私はこれが最後になるとも知らず、祖母と伯母について面会に行った。抑制が効かず施設の網戸を破壊していた昨年が嘘のようにベッドの上で管につながれ、話しかけても目を合わせることしかできない痛々しい様子であった。布団からのぞく枯れ木のような手足はところどころ黒にえている。黒にえるとは、打撲などで黒い痣になるという意の方言である。祖父のそれはもう血の通わない組織が死んでそうなったものだ。

伯母はいつもするように優しく声をかけながら祖父の手をさすっていた。長子である伯母は特に祖父に可愛がられていたというし、元来優しい性格であったから祖父が家で無視されている時分も一人祖父を気づかっていた。私も恐る恐る触った。入院してから何度も面会したが、このとき初めて祖父に触れた。どんな手触りだったか覚えていない。痛そうに顔をしかめ腕に力を入れた様子だけをよく覚えている。触ったことの照れ隠しに「若者の精気を分けてやったのだ」と言ってごまかした。しかしその翌朝だったか、祖父は身罷った。

認知症が進行するとがんの痛みも感じないというが、面会したとき、今度私がシベリア鉄道に乗るという話にか細い声で旅行費用の心配をしてくれたくらいには、死ぬ前は正気に戻っていて、とても痛かったのではないか…というようなことをあとから考えた。

祖父は、なんというかとても面倒くさいところがあったが、人のいい人間だった。冬の日、小学生の私が親にいわくつきのお手玉を捨てられて泣いていると、祖父はゴミ箱からサルベージしたそれを洗って乾かしてくれたし、施設に入る前は私がその日のピルを落として探していたのを見て、あとで探し出してくれたりした。レーズンを偏食していたら1㎏くらいの袋を6つか8つ買ってきてくれたこともあったが、しかし当時祖父と話しづらい雰囲気だっために、これは一つも開けずに廃棄になってしまった。あのときもっと親切にしておけばよかったとか、そういうことを思うと今でも目頭が熱くなる。

皮肉なことだが、小さなお骨になってから祖父はよく家族の話題にのぼるようになった。死んだ人は悪く言えないのか、うちの家族がみんなツンデレだったのかどうか、よく祖父が今頃どうしているか話し合って笑っている。仏様のご飯は炊きたてを毎日供えなければならないが、炊いた日にしか持っていかないので「もっと飯をよこせ」と言っていそうだとか、小児の従姪が頂きもののお菓子を早く食べたいがために、仏壇に載せてお鈴を鳴らしたらすぐ回収してしまうから、呼び出されて来てみたら何もなくて困っているのではないか、とか。

 

だいぶ脱線したが、母が祖父を指して「じじい」と言うのには、嫌っていた時代もふまえて偲ぶ気持ちがあったのだと勝手に思っている。だから近くまできたついでに、祖父の実家に行くことを思いついたのだろう。

うちはなぜか親戚づきあいの少ない家で、私は誰かの法事にも行ったことがない(祖父の葬儀が初めてだ)し、祖父方筋の親戚に至っては人づてに存在を聞き知っただけである。そのため、親戚なら誰でも機会があれば会ってみたいといつも思っていた。母は祖父の母(「坂下のばあちゃん(これも分度器)」)に似ていると言われていたそうだから、私も似ているに違いない。ルーツをたどってみたくもあった。

 

界隈では有名な難読の地名と、神社と公園があったという母のかすかな記憶を頼りに、ドライブが始まった。母自身も祖父の運転で何度か来たことがあるだけで、最後に訪れたのは30年ほど前だという。片側3車線はある大きな国道を進み、このあたりと思われるところで細道に入っていく。母は「こんな感じの、藪に車を停めて歩いて行ったんだ」などとブツブツ言いながら田舎道をゆっくりと進んだり戻ったり、私はグーグルストリートビューを開いて記憶の助けにしたりして、やっとそれらしい場所を見つけることができた。神社の駐車場に停車してマックのバリューセットをかじり、歩いて藪を抜けて蚊に刺され、道を間違えて戻り、歩行距離をケチってより近い停車場を探して断念し、結局歩くことになった。ここでだいぶ時間をくった。

 

盆の送り火の跡が残る橋を渡った先の、藪(昔はここに車を停めたらしい)の陰に田んぼの端を埋めて建てたらしい家並があり、その間のほとんど畦と言ってよい細い舗装路を抜ける(「そうそう、この用水路で遊んだんだよなあ」)。

祖父の実家は、見事に田んぼのど真ん中にあった。

宅地化されず残った田には青々とした稲が夕日に映え、ここだけ一段とのどかな風景をとどめていた。

古くもなく新しくもない程度の二階建てで、ベランダに日よけの布がはためいている。

 

母は一通り眺めたら満足したようで、すぐに来た道を戻り始めた。私はここに住んでいるという祖父の姉(「ねえさん(分度器)」「坂下のおばさん」)に会ってみたかったから、振り返りつつ未練がましくじろじろ見ていた。

そのベランダに40-50代くらいの女性が見えた。続いて、家の陰からはしごを持って同じ年頃の男性が出てくる。ねえさんの息子夫婦だろうという。ほどなくして、小柄で丸っこい、しかし背筋の伸びたおばあさんが、息子と何か相談するために現れた。

「ああ、坂下のばあちゃんによく似とるわ」

すかさず「話さなくていいのか(私は話したいんだけど)」と聞いたが、もう付き合いもないから、といって母はさっさと行ってしまう。まあ順当に考えて、30年も会っていない親戚を前触れもなく訪問するのは常識外れだったかもしれない。

 

若い頃の祖父が暮らした場所に、今も祖父の姉とその家族が、自分の血のつながった人たちが生活しているのを垣間見るのは不思議な気分だった。

大伯母の小さな背と、田んぼに囲まれた小さな家が、今も瞼に残って消えない。